松葉ヶ谷雁信

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仏眼

皆さん既によくご存じのことと思いますが インターネットはすごく発達していて いろいろなニュースを調べたり 手紙のやり取りをしたり お見合いのサイトもあります 最近ではインターネットのお見合いサイトで出会い結婚する人も多いようです 私の知り合いも2組結婚し 幸せな生活を送っています お寺の仕事もスケジュール管理やメンバーとのやり取りなど インターネットがないとできないという状態になっています

さて 私は普段車を運転している時によくラジオを聞いています KZOOも聞きますし ロックやハワイアン 時にはクラッシックやジャズも聞きます ある日車の運転をしながらいつものようにラジオを聞いていました その時に聞いた話です あるところに 仲の悪い夫婦がいました その夫婦は 仲直りすることを諦めて インターネットの世界へと逃げました この二人はどこかに自分にぴったり合う相手はいないだろうか そういう人を二人とも探していたのです ある時 それぞれにいい相手が見つかりました 自分が結婚していて 相手とうまく行かないこと きっとどこかにもっと理解し会える相手がいるだろうと考えていることなど いろいろなことを文章で相談しあいました そして 最終的に実際に会うことを決断しました 夫婦は二人ともそれぞれの相手に会えるということでワクワクしていました そして待ち合わせ場所に現れたのは ご想像の通り けんかばかりしてる配偶者でした 二人とも吃驚しました ここで やはり自分に一番合う相手は配偶者であることを悟り 仲直りをしましたとなれば 話としては一番きれいなのですが 現実はそうではありませんでした お互いの不誠実さを罵り合い離婚したそうです

せっかく縁があって結婚し 仲良くなるチャンスがありながら残念な結果に終わってしまいました 皆さんはこの話を聞いてどのようにお考えでしょうか?これは 縁が充分でなかったということでしょうか 私はそうは思いません 十分な縁なくして結婚はできません しかし 離婚に終わったことを考えると 縁が充分でなかったということよりも 頂いた縁を活かすことができなかったからかもしれません もちろん 私たちの周りで起きる家族の話ではそれぞれいろいろな事情があり一概には言えませんが 特にこの夫婦の場合 インターネットを通じてもう一度お互いを理解する機会があったにもかかわらず だめになりました これはそのことを示していると思うのです

ではなぜ インターネットを通じてもう一度お互いを理解する機会があったにもかかわらず だめになったのでしょうか もちろん事の真相はその二人でなければわからないことですが 時には本人よりも周りの人間の方が冷静に物事を理解している場合もあります この二人は 喧嘩ばかりしていたのでお互い向き合うことを諦めて インターネットの世界に逃げました そして探し出したのは 自分の気持ちに共感してくれる人だったのです つまり 配偶者を非難し 自分の味方を探したのです 自分の味方を探した時に インターネットですから文字によって会話をすることになります ということは 肉声であれば理解できること顔を見て話せばわかることがわからないということになり 冷静に客観的に判断しているつもりでも 文字に浮かぶ意味だけを知らず知らずの内に自分に都合のよいように解釈したのではないでしょうか 文字を自分なりに解釈するだけでなく 容姿であったり声を自分の好みに想像も逞しくしたことでしょう つまり インターネットを通じて知らない相手に自分の理想を投影していたのではないかと思うのです そして 実際に会うことで自ら描いていた理想と現実の違いを思い知らされ 焦り失望し その落差故に現実ともうまく向き合うことができなくなったのではないかと思います

このお話が 映画で話であればきっとハッピーエンドとなるでしょうし 事実そのような映画もかなりあります しかし これは現実の話です 私が皆さんにお話ししたいことは 自分ではいくら冷静に客観的に理解し判断しているつもりでも そうでないことがたくさんあるということです そしてそのことを心に留めた上で日々を送る必要があるということです このようなことを以前から私は仏眼という言葉でお話してきました

仏教の教えは 仏様の教えであると共に 仏様になるための教えであります 仏になるためにはどのようにしたらよいのかという問いの答えの一つが 仏眼ということになります 仏眼を私たちが持つということです 仏眼を自分のものとして 仏様の目を通して物事を見理解判断するということです

仏眼とはどのようなものでしょうか いろいろな言い方があるとは思いますが 基本的には欲望や偏見などを離れた清らかな仏様の目のことで 物事の真実を見極める力を持った眼のことです 私たちにとってはお題目をお唱えしている時に持つことができる眼ということができると思います これもよくお話ししていることですが 私はお題目をお唱えしている時に心がとても落ち着き 冷静に物事を考えることができます つまり いろいろな自分の欲望や偏見(貪瞋痴 3毒)から少し離れることができるのです これはお題目の偉大な効能であり 御利益と言えます そのような中で考えがまとまり よい方向へと導いて頂いているという気持ちにもなれるのです 私は何か心配事や困ったことがあればお題目をお唱えし お経を読みます これが私にとっての万能薬なのです 信仰を以て智慧に換えると日蓮聖人は教えられています それは言い方を換えれば お題目を信仰することにより仏様の智慧を頂く つまり仏眼を得るということでもあります

なぜ今日このようなお話をしたのかといえば これからまた新しい一年が始まります いろいろなことがあると思います 毎年そうですが 思い通りに過ぎていく一年などありません 誰もが大変な思いをしながら生きています そのように生きて行く上で この信仰がいかにありがたいものであるのか いかに有用であるのかを皆さんに改めて理解をして頂きたかったからです お題目をお唱えして生きて行くことはとても大切であり また本当に皆さんのためになることです お題目と共に少しでも幸せな一年を過ごして頂くようお祈りしております

2015年1月11日