松葉ヶ谷雁信

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掃除

皆さんは 須利槃特(チューダパンタカ)という人をご存じでしょうか この人は お釈迦様の弟子のお一人です この人にはお兄さんが一人いて同じようにお釈迦様の弟子で とても賢い人であったそうですが 弟である須利槃特は 逆にとても愚かな人であったそうです なぜ愚かに生まれたのかというと 過去世において 迦葉佛という仏様の下で修行をしていた時に 賢い弟子であったのですが 教えを暗誦できなかった他の弟子を嘲笑したため その報いで今世では愚かに生まれついたのです

さて その須利槃特ですが 兄と共にお釈迦様の弟子となり修行に励みましたが どうしてもうまくいきませんでした 3か月かかっても少しもお釈迦様の教えを覚えることができませんでした その近辺で毎日仕事をしていた牧夫が先に覚えてしまい 須利槃特がその牧夫に聞きに行くという有様でした そこで兄は 弟はとても愚かで修行に耐えられないと思い お釈迦様の弟子を辞めさせることにしました その話を聞いたお釈迦様は 須利槃特を憐れんで 一本の箒を渡し 「塵と垢を除け」と言いながら掃除をするようにと言いつけました

須利槃特は 「塵と垢を除け」と言いながら 一所懸命掃除をしました 一心に周りを掃き清めました 長い時間が経ちました ある時 須利槃特は塵と垢が落ちにくいのは 人の心も一緒だということにふと気が付きました それからお釈迦様の教えを理解するようになり ついには悟りを得ることができました 

素晴らしいお話だと思います この物語に関して 特に2つのことについてお話ししたいと思います それは 仏教では愚者も賢者も差別しないということと 掃除が大切な修行であるということです

仏教では平等を説き 誰でも悟りを得ることができると教えます その典型的な例としてこの物語はよく引用されるのです つまり 悟りを得るのに 頭がいいとかそうでないとかは関係ないというのです よく仏教の教えは難しいと言われます 詳しい教義を学ぶことは確かに大変難しいことです しかし 頭だけで理解しようとしても悟ることはできません よくご存じのように いくら頭が良くても意地の悪い人がいます 逆に それほど頭を良くなくても きれいな心を持った人がいます どちらが仏様に近いのかはいうまでもありません 私たちは よく身口意での修行が大切といいます これは 体で修行すること 口で修行すること そして心で修行することを意味しています 教義の理解はその後にくるものなのです ですから お釈迦様は兄ほどに須利槃特のことを心配していなかったと思います 須利槃特に最も適した修行方法をお示しになり 悟りへと導かれたのです そして 皆さんに御理解頂きたいことは この須利槃特は 実は私たちのことなのだということです 十分な知恵もなく いつもいろいろなことを悩んでいる私たちは 正に現代の須利槃特なのです そしてそのような私たちに お釈迦様は救いの御手を差し伸べておられることをこの物語は象徴しているのです

さて 私たち僧侶がお坊さんになることを決意して 最初に行う修行は掃除です 私の場合は 僧侶の息子でしたから 物心が付いた時にはいつも掃除をさせられていました 本堂の掃除であったり 庭の掃除であったりといつも掃除をしていた気がします 自分の部屋などの掃除はうまくできませんが 今でも本堂の掃除をすることは全く気になりませんし 当然のことと思っています 毎週土曜日 土曜日にできないときは他の日に必ず本堂の掃除をします 掃除をしないと 仏様に申し訳ないと思いますし 気持ちが悪いのです

法華経の第3章譬喩品にも大切な修行として掃除が出てきます 50年も離ればなれになった親子が再会するのですが 息子は相手が父親であることを知りません 父親は 幼児の時に別れて躾をされていない息子をどのように再教育するかを考え 掃除から始めるのです ただの掃除ではなく トイレ掃除からさせたのです ここで仏教において修行としての掃除がいかに大切さがわかります

話を戻します 須利槃にお釈迦様が特に指示された修行が掃除であったということは このようなことから仏教においては象徴的な意味があります つまり 最も基礎となる修行をしたということ その修行を長い間積んだこと それにより逆に修行の基礎ができたこと 基礎ができたが故にその後の修行が速く進んだこと 掃除といえば 特別な修行とは思えないかもしれません それは 誰もがしなければならないことだからで 僧侶だけがするものではないからです 例えば 長い時間お経を読んだり難しい本を読んだりすると僧侶らしい修行をしているように見えるかもしれません しかし そうではありません お釈迦様は 私たちの日常生活が既に修行であるとも言われています その意味でも掃除は大切な修行なのです そしてそのことにより 修行を通してお釈迦様の教えを理解していったのです 一方的に教えられたことではなく 体で掃除をしながら 口で「塵と垢を除け」と言いながら 心で塵と垢が落ちにくいのは人も同じと理解していったのです これは実に立派な修行でした

日曜法要にお参りすることやご家庭でお経を読むことは大切な修行です しかし 掃除をすること 特にお寺の掃除をすることも仏教徒としては大切な修行です お寺のお手伝いをするというだけでなく 重要な修行として多くの人に年2回の大掃除に参加してもらいたいと思っています

2014年11月23日