松葉ヶ谷雁信

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宗祖涅槃図

日蓮聖人は 1282年10月13日に池上宗仲の屋敷で亡くなられました そのお屋敷は現在池上本門寺というお寺になっています どのように日蓮聖人は亡くなられたのでしょうか その様子を表したのがこの涅槃図なのです もちろんこの涅槃図は複製で 本物は身延山に大切に保存されています 私も本物を見たことがありませんが これより約3倍も大きいものだそうです 約300年ぐらい前に描かれたもので 宝物といえます 身延では 毎年10月11 12 13日に本物を祖師堂に掲げているそうです もし本物をご覧になりたければ 来年身延にお参りして下さい

さて この涅槃図は屋根と天井を外した状態で内部を見るという構図になっています これは当時の特徴的な描き方といえます 多くの人が描かれていますが 何人なのか数えてみました 全部で141人の方が描かれています 驚くことに全ての人に名札も付けられています ということは 当時の実在の人物であり 熱心な方達であったと言えます しかし どうしてこれを書いた人が全ての人の名前を知っていたのでしょうか たぶん何らかの形で 日蓮聖人のお書きになったものを見る機会に恵まれた人だったのでしょう そうでなければ名前を知ることは難しいことでしたでしょうし どのような人であったのか深く理解することなしにこれだけの絵は描けるものではないと思います 理解があったからこそ それぞれの特徴をつかんで個性豊かに100人を超える人が描かれているのだと思います

では具体的に何が書かれているのかをもう少し詳しく見ていきます まず最初に 大きな御本尊が目につきます これは 『臨滅度時の御本尊』と呼ばれるもので 日蓮聖人が書かれたものの中ではかなり大きなものです 鎌倉の妙本寺に現在も大切に保管されています 仏様のお像は 日蓮聖人が生涯お持ちになられていたものです 右の巻物は『立正安国論』で 亡くなる前の最後の講義がこれについてであったといわれています 山形に積んである巻物は『法華経』です ただの法華経ではなく 日蓮聖人がお経の行間にいろいろな書き込みをされていました 燭台 香炉 お花 果物などがお供えされています 真ん中で横になっておられるのが日蓮聖人です 多くの弟子や信徒さんに囲まれています 男の僧侶であったり 女性の僧侶であったり 在俗の僧侶である入道であったり 男性信徒 女性信徒がいるのが分かります ベッドの周りにいるのは 日昭 日朗 日興 日頂 日持 日向で 六老僧と呼ばれる 日蓮聖人から後事を託された僧侶です この中で 私たちに最もなじみが深いのは 最初に海外布教をされた日持上人です 日興上人の隣に少年がいます 経一丸といい 最も若い弟子でした 亡くなる直前に日蓮聖人から京都での布教を命ぜられました

お気づきに方もいるかもしれませんが 見覚えのある家紋の入った服を着た侍がいます この紋は 日蓮聖人の家紋といわれているものです この侍は 貫名藤平といい 実は日蓮聖人の弟といわれています

この屋敷の主は 池上宗仲で 妻と一緒にいます 前々回のニュースレターで皆さんにお配りした英文日蓮宗ニュース8月号の表紙にカップルの写真があります この男性はその池上宗仲の子孫です 池上家の42代目の当主で 池上宗仲は7代目の当主だそうです 池上宗仲から数えると35代目となります 池上家が700年も絶えることなく続いていることは驚くべきことです 池上家だけではなく ここに比企能本という侍がいますが この人の子孫も現在まで続いています 本当にすばらしいことだと思います

さて 何故このような絵が描かれたのでしょうか もちろん お釈迦様の涅槃絵もかかれています ここには深いわけがあるのです お釈迦様は最後の8年に霊鷲山で法華経をお説きになりました その後クシナガラというところへ移動され そこで亡くなられました クシナガラは霊鷲山の北東に当たります 日蓮聖人は 最後の9年を身延山で過ごされ 旅の途中に池上宗仲の屋敷に立ち寄られ そこで亡くなりました 池上宗仲の屋敷は 身延の北東に当たります この偶然の一致から 日蓮聖人はお釈迦様の同じように亡くなられたと理解されるようになりました お釈迦様と日蓮聖人に対する信仰が融合し このような絵を描く深い動機となったのでした ですから この宗祖涅槃図は私たちにとって大切な宝物なのです

2014年10月19日