松葉ヶ谷雁信

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子を思う親の気持ち
親を思う子供の気持ち

今日はお盆法要を営んでいます まずある人のお話を聞いてもらいたいと思います

三年前に父親を亡くした男がいました ほとんど遺産を整理し終えた後に父親が大事にしていた金庫が残りました 三人兄弟だったのですが 母親も既に亡くなっており 誰もその金庫の中身を知りませんでした そこで 兄弟家族みんな呼んで その金庫を開けることにしました
しかし これが頑丈でなかなか開きません 仕方ないから鍵屋を呼んで開けてもらうことにしました なかなか開かなくて なんとなく兄弟で子供の頃の話を始めました
父親は昔からすごく厳格で子供の前で笑ったことも一度もなくて 家族で旅行もいかなかった 子育ても母親に任せっきりで 父親は大嫌いでした 一番下の弟が そういうわけだから沢山お金をためているたのじゃないかと言い出し その後に真ん中の弟も父親が夜中に金庫の前でニヤニヤしながら何かしていたのを見たといいました だから自分もかなり金庫の中身に期待をしました
その時に鍵屋がちょうど「カギ 開きましたよ」といいました ワクワクしながら金庫の前に行き 自分で金庫のドアを開けました そしたら まず中からでてきたのは 古びた100点満点のテストでした それをみた一番下の弟が「これ 俺のだ!」といって私から取り上げました 次に出てきたのは なにかの表彰状 すると次は次男が「俺のだ」といいだして その後にネクタイが出てきました 見覚えがあるなあと思って気がついて叫んでしまいました 「あ これ俺が初めての給料で父親に買ってやったネクタイだ 」その後に次々と昔の品物が出てきて 最後に黒い小箱が出てきました その中にあったのは子供の頃に家の前で家族全員で撮った一枚の古い写真でした それを見た自分の嫁さんが泣き出しました その後にみんなもなんだか泣き出しました 自分も最初は なんでこんなものが金庫のなかにあるのかが分かりませんでした 金目のものがないなとすこしがっかりしたのですが 少したって中に入っていたものの意味が理解できた時 その写真を持ちながら肩を震わして泣いてしまいました 人前で初めて本気で号泣してしまいました そこで鍵屋が 気まずそうに「あの 私そろそろ戻ります」といい みんながはっとして涙をにじませながら「ありがとうございました」とお礼を言いました

このとき 父親がどんなに子供たちのこと想っていてくれたかと さっきまでの自分が金目当てで金庫を開けようとしたこと 子供の頃に父親に反感を抱き 喧嘩ばっかりしたことが恥ずかしくて仕方がありませんでした 父親は金よりもほんとうに大事なものを子供たちに遺してくれたのです

お盆は 目連尊者というお釈迦様のお弟子が 餓鬼道に落ちていた自分の母親を救う故事から始まったといわれています つまり 親を思う子供の気持ちから始まった行事なのです 先ほどの兄弟も父親のことを憎んでいたつもりでしたが 実はどこかで父親に近づきたい 何かをしてあげたいという気持ちがあったのではないでしょうか
感情的反発から自分の本当の気持ちがわからなくなっていたのだと思います それが 金庫を開けて父親の気持ちを理解して 初めて奥に潜んでいた自分の気持ちも表に出てきたのだと思います 特別な事情がある場合もあるでしょう しかし 多くの場合は親が子供を思う気持ちと同じように子供が親を思う気持ちにも深いものがあります

お盆に関していろいろお話したいことがありますが その内一つだけ今日はお話したいと思います それは 子供の親を思う気持ちとその表し方についてです 最近いろいろな人と話をしていて気になることがあります それは 自分達が死んだら子供達に迷惑を掛けたくないという人が多いということです 自分達がその親から迷惑を掛けられたというのではなく 子供に対する愛情としてそのようなことを考えている人が多いようです 具体的には 葬儀は簡単にして法事もしなくてよいなどという人がいるようです しかし 私はそれでいいのだろうかと思います 死んだら終わりなのでしょうか 目連尊者は神通力を使って 母親が餓鬼道に落ちていることを知りました 死後に別の世界で生きていることを確認したのです そして その母親を救いたいと願い お釈迦様にどうしたら救うことができるのお聞きしました お釈迦様は 夏の修行が終わる日に全ての修行者にお経を上げてもらい供養しなさいと教えられました 教えられた通りにすると 母親は救われました ここで重要なことは 死後にも世界があること その世界で別の人生を歩むこと そして 別の世界に住でいる亡くなった家族を救う道があることなどです 先ほどの物語やお盆の起源に見る通り 子供だって親のことを大切に思っています 親が死んだ時に皆さんが一様に言うのは もう少しやさしくしてやればよかったとか もっと何かしてやれたのにという後悔の言葉です 生きている時にどんなに親孝行している人でも そういった感情が湧き起こります

しかし 亡くなったから何もできないわけではありません 亡くなってからも親孝行はできるのです その親孝行の方法が きちんと葬儀をすることですし 法事を務めることなのです もしそれをしないでよいと遠慮すると 親に何かしたいという子供の気持ちはどうなるのでしょうか なにもできないとなると 子供の気持ちの向う先がなくなります 葬儀や法事を務めることで 親のために何かをなしたという気持ちが生まれ 親を亡くした悲しみが少しずつ癒されるのです 法事など教えてもしない人は何もしません 親のために何かできることがあることを知ることは幸せなことです 逆に 何かしてあげたいと思っている人には それを教えないのは残酷なことともいえます 子供のことを考えて かえって子供のためにならないことになるなら本末転倒です

お盆法要にお参りし塔婆供養をすることは 亡くなった家族のためだけでなく残された遺族のためにも重要なのです だから 皆さんのお子さんに法事のことなどもっとお話をして下さい それは 子供さんのためでもあるのです

2013年7月14日